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:: 2009/3/10 火曜日::

■[ラノベ]泣いて、叫んで、堂々完結!「とらドラ10!」

とらドラ〈10!〉 (電撃文庫)
著者/訳者:竹宮 ゆゆこ
出版社:アスキーメディアワークス( 2009-03-10 )
定価:¥ 536
文庫
ISBN-10 : 4048675931
ISBN-13 : 9784048675932
絵師サイト:Σぎゃあ

雪の降る中、竜児と大河が手に手を取り合って逃げ出す絶妙な所でヒイた続きが遂に!
逃げ出したはいいけど、大河のドジと勘違いのダブルコンボで金を無くし川に飛び込むし、
それでも二人の想いが結ばれてハイテンションだしという、序盤から盛り上がりまくり。
亜美、実乃梨、北村という得難い友人たちに支えられて一歩踏み出そうとする姿は正に青春です。

逃げ出して、切り捨てて人生を歩んでいくのに疑問を感じていたら、
自分が捨てられ、逃げられたことで間違いに気付き、全てひっくるめて幸せになろうとし、
いつもどこかで道を間違えていた竜児が今度こそ道を間違わず、
大河と二人だけでなく、泰子とその両親と全部纏めて幸せになろうとするのは安心したなぁ。

また、クラスメイトの面々も亜美、実乃梨、北村だけでなく劇団春田も二人を助けたり、
勿論そういった友達ばかりじゃないのもキャラクターの個性を実感して…
上手く言えないけど、名前も明かされないキャラの一人一人がちゃんと生きてるんだなぁ、と。
泣き叫ぶ泰子もそうだし、生徒に裏切られても信じるゆりちゃんもみんな生きてるんだな、と。

大河のデレっぷりをもう少し堪能したかったという思いはあるんですが、
物語としては綺麗に終わったし本編はこれで丁度良い完結だったと思います。
勿論今後刊行される番外編にも期待してますけどね。
どのキャラも生きているからこそ、番外編も輝くってなもんですし。

しかしやっぱりゆりちゃんは良い先生だし良い女性だよなぁ。
この作品で結婚したい女性No.1だぜ…

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 Comments (2)

2 Comments »

  1.  正直なところ、ゆりちゃんが独身なのが本当に納得できませんよね~。多分、責任感が強いやら今時の流行に乗れないやら職場の関係上、同輩と会話することがまず無いとか、色々と不幸が重なってると思うんですよね。ゆりちゃんは今時の妥協の末に到る結婚ではなく、目の前の白乳霧がさっと消えて晴天が差し込むような、そんな素晴らしい出会いが待っていると信じて止まない小生であります。
     個人的には、やっちゃんを実家に導いて「帰って良いんだよ」「独りでがんばらなくて良いんだよ」と心から安堵させてあげられた竜児と、義理と人情と常識に凝り固まった竜児を本当に天然で見事にほぐした大河のバランスの妙に驚きました。やっぱり、この二人はこうあるべきしてあるんだなぁと、しみじみと感に入ってしまった次第です。

    <以下、閑話休題。お暇であればお読みください>

     「自分なんて産まれなければ良かったんだ」。この発言に対しては小生も些か感じ入るところがありまして、「一両ばかりの借金で」という言葉が示すとおり、江戸期から人が入水自殺してその原因が一両の借金。然れども、人が同情を寄せるのは必ず「死後」なんですね。生前にそういう人間がいても手をさしのべもしない、気づきもしない。そこには全国中の債務を負った人間を助けるのかとかそういう現実的な話は一切無く、もっと無情で救いようのない、只の無関心と楽観的観測です。
     そういう方面から見れば、まさしく一番の瀬戸際に立っていたのは竜児といって差し支えないでしょう。大河は大河で実の所、無気力感こそ解消されないものの、あのまま流されていけば少なくとも生存は確約、竜児ほどの自己存在否定性も持ち合わせているわけではないように思えたので、養父家庭とも実父陸郎と同じくして距離を置いてつきあっていけばそれほど問題は無いように思えます。そして北村、川嶋、櫛枝の面々に到ってもそうです。ただ、竜児だけがただ生きている、それだけで自分が持つ刃を自分に斬りつける。そうせざるを得ない。大河とは真逆で、他者からの愛の渇望ではなく、自己の存在意義に対する限りない憎悪です。
     かなり過激なことを申し上げれば、私自身は「自殺」という手法を否定しません。自殺は確実な逃げです。無論、他者の立場からすれば、その人に近しければ近しいほど「きっとこれから先は良いことがある」と諭すでしょう。しかし、先に幸があるか不幸があるかは誰しも保証できないのです。幸がある可能性があれば、等しくして不幸が存在する可能性もあるはずなのです。因果論からすれば天寿を全うするにあたって幸福の均衡はきちりと正対象になるそうですが、どうあったところで子は親を選べず、親は子を選べず、生まれの地、民族的背景、家柄、所属する国、生まれ落ちた瞬間から様々な制約が身に降りかかります。自殺によって個人が真に「救われる」という思うのであれば、私はそれを頭から否定する言葉を持ち得ません。死によって大いなる苦痛から解放されるというのであれば、それは救いであり救済だと思うのです。
     横道にそれますが、日本という国は泰西(主に西部ヨーロッパを指す言葉。場合によっては中東オスマントルコ領から唐、ポーランド以東にさしかかるまでをいうことも)史や中東アラブ史(オスマントルコ、エジプト、イランやイラクなど。パレスチナとイスラエルは一次大戦、二次対戦で連合国(確か主導したのはイギリス→「アラビアのロレンス」などが代表作)が出来もしない独立手形を切った結果が現在に帰趨します)コーカサス地方の分離独立からソ連併合、更に独立、これはロシア史、唐(本当はかの地に統一国家王朝が存在しないため「支那」と大地そのものに名をつけた名称が良いのですが、サンスクリッド語の「チーナ(大地)」から当てたこの言葉に差別的要素は一切含まれていないにもかかわらず、何故か中共の要請で使用禁止に)。漢族が打ち立てた中華民国の前期王朝は満州族の清、それが中華民国国民党蒋介石とマルクス・レーニン思想の毛沢東が争った結果、毛沢東が勝利し中華人民共和国が建国。それ以前の王朝も元の蒙古人(現在のモンゴル人)しかり、金の如真族然り、基本的に中原と呼ばれる黄河、長江までの平原を抑えた者が覇を唱えた証となるのですが、唐の大地に住まう民族はほぼ全員が自分以外の民族全てを嫌っていると断言して差し支えありません。何しろ、征服した者勝ちなのですから。そこには必ず強欲的な民族レベルの自己中心的思考があり、武力こそ正義、征服されるのは劣等民族の証拠であり、その象徴たる前王朝の文化は滅して然るべき。故に唐の王朝は代替わりするたびに文化大破壊が起きます。歴史的な大虐殺として刻まれた文化大革命がまさしくその例です(ですので、清王朝の国宝は殆どが台湾で現存しています。敗北した蒋介石が台湾に逃亡する際、乗船を希望する民衆に機銃斉射してスペースを確保し、持ってきたそうです。中共政府は返還を求めましたが、台湾中華民国政府はどうせそちらにあったところで、文改で破壊されていたのだから、むしろ我々の手中にあったからこそ現存している。故にこれらの所有権は我々にある、とのことです。結果論ではありますが、物はおろか人まで千人二千人も虐殺せしめたのですから、反論の余地はありませんねぇ……)。
     長々とまずお隣の唐(Chine)について語りましたが、実はこれでもまだ歴史学的に見ると易しい方です。唐の大地は覇権を争う民族が固定されていますから。これが泰西史となると、まずは国家勃興史から始まってブリタニアやローマ、ギリシャの国家間紛争とケルト人、ローマ人、デーン人、アングロ人、サクソン人、ゲルマン人など土着の民族や流入してきた民族の民俗学、ゲルマン神話やローマ神話やキリスト教といった宗教学、併呑した領土の運営法など政治学、果ては土着民族と民俗宗教が入り交じった文化人類学まで混じってもう私、訳が分かりません。で、例えば泰西は国などあって無きが如く、勃興を繰り返し現在の国境線が画定されたのは二次大戦後しばらくしてからですが(杉原千畝がいたリトアニアも併合と独立を繰り返していますし、政治的意図で合併されたチェコスロバキアも分離、同様にプロイセンもそうです。かと思えば南北イタリアが政治的都合で統合されたり、もう無茶苦茶です)、その間にもユーゴスラビアの瓦解によるボスニアなどの独立、ソ連崩壊によるキルギス、トルクメニスタン、グルジアなどの独立などがあります。分かりやすい例を挙げれば、ローマはインド辺りまで領土を延ばしますが、ローマ王朝は広大な領土の統治にあたって本土から政務官を送ることをせず現地登用しました。おかげでそこまでの文化的混乱や民族風習的齟齬による反乱は無かったものの、ローマ正教やローマの文化は根付きませんでした。片やオスマントルコは幾度となく泰西民族に辛酸をなめさせられており、支配下に置いた民にキリスト教からイスラム教への改教を強いています。そして3000年前にディアスポラ(大離散)を経験し国持たぬ民となったユダヤ人はユダヤ人であるというだけで差別の対象となり(近年のDNA判定によると、生粋のユダヤ人の血を引くユダヤはほぼ絶滅だということですが、文化と民族、宗教を面々と自負を以て受け継いでいる以上、彼らは「ユダヤ民族」として扱われて然るべきでしょう)、クルド人のように団結して土地に定着することすら許されず、ロシアやソ連では問答無用で流刑、挙げ句、ナチスドイツ下では虐殺の対象、20世紀中期に至って漸く、安住の地を手に入れたわけです。誰にも密告される恐れもなく、ゲシュタポやスタージが、ロシア国家憲兵隊がなだれ込んでくる心配をする必要もなく、真に安らぐことが出来る大地を手に入れられたわけです。それまでのユダヤの歴史を鑑みるにあたって、果たして一概に「武力侵攻による領土獲得は認められない」と言えるか否か。それは20世紀前半まで欧米列強が指針としてきた帝国主義思想と何ら変わりなく、更にユダヤにはこれまで迫害されてきた我が民族のためにも何某かの恩恵を後世に残すという大儀があります。ユダヤという民に生まれついただけで三千年も迫害されてきた以上、その報復を一方的に非難することは私には到底出来ません(現在の国際法に依っても戦争行為中に起きた非人道的行為こそ起訴は出来るものの、いかな理由があろうと「開戦」を判断した国やその国家元首に対して裁判を起こす法的根拠はなく、戦勝国の開戦事由が結果的に過ちであっても罰する法が存在しないことは安保理の決定を無視してイラク戦争開戦を決意したブッシュに見られるように明らかです。大量破壊兵器のかけらも見つからなかったイラク国元首のサダム・フセインは絞首刑。片やイラクをあらぬ嫌疑で混乱の坩堝に陥れたジョージ・ブッシュはテキサスの農場でのんびりとした余生が約束されています)。パレスチナもパレスチナで、ODAがそのままテロ組織活動資金源に回っているという話もありますし、先頃のイスラエルによるガザ侵攻では、非戦闘員である老人や女子供の避難所をわざと交戦地域の危険地区に指定して砲撃させ、国際メディアに報道させるという手法も風の便りに乗ってきました。もとより、アラファトの遺産総額と生活ぶりからすれば、その実態はイスラム過激派の指導者とさして変わりはないものではないのかと疑ってしまいます。イスラエルはシリア、リビアを国家的に認めていませんし、現在に至るまで中東戦争は幾度となく繰り返されてきています。
     さて、申し訳ないほどに長々と語ってしまいましたが、結論として申しますと、「他国史に比べて日本史ほど分かりやすい歴史はない」ということです。基本的に皇紀元年に大和王朝が成立して以来、天皇制から摂関政へ、摂関政から幕府政へ、そして鎖国、開国と同時に絶対君主制と民主制の並立によるドラスティックな政治変革を成功、日清、日露、一次大戦に戦勝するも、日中、大東亜にて軍統制の欠如、情報戦の敗北、陸海軍の不和による敗戦、而して戦後、奇跡の大復興を成し遂げ、現在に至る。日本という国体が諸外国に直接的に攻められたのは元寇、高麗の対馬侵攻、飛んで日露戦争、大東亜のみです。他民族の大量流入もありませんし、国教は仏教ながら神道も捨てられることなく、その仏教にしたところで叡山が日蓮や道元を追放し、石山本願寺や根来寺、高野山などと並んでそのままの武力を誇ったまま現在まで放置されればあるいはムスリムのシーアとスンニーのように、宗派間の武力闘争もあり得たかもしれませんが、安土桃山において豊織政権、事に織田信長公の叡山焼き討ち及び石山本願寺解体にて宗教勢力の武力解体が行われ、今日の聖教分離があります。
     で、この日本というモデルが人間というものを見るにあたって実に分かりやすいのです。唯一、日本が分国化して日本という国内に多数の国を内包するようになった室町末から安土桃山、所謂、戦国時代に到るまで、人間40年、ただ生きることのみが難しかった時代が続きました。百姓は畑だけでは食べていけず、農兵として出陣、商人は版図を広げられそうな有力大名に金を貸し付け、金利を貪る。大名は百姓の兵力と商人の富で軍事行動を起こし、領土を拡大、恩賞として略奪した土地を与える。乱世では「生きる」ということが必然ではなかったのです。そして天下統一。世が三つ葉葵の徳川統治による江戸時代に変わると、商業中心の都市が隆盛を誇ります。江戸、大坂、京、名古屋、博多、長崎。ですが、実情は大名の備蓄と地方経済の搾取から成り立つ砂上の楼閣に過ぎず、一部の人間が富を蓄える一方で、平民は奉公先に一生働き。戦国の世からすれば死をそれほど意識する必要はなくなったものの、「生きる」ことは物理的になかなか辛い。が、がんばってやれないことではないので脇目もふらずがんばる。浮上することがない変わり、ミスがなければ一生は保証されるという終身雇用の元祖は実は徳川政権を祖とします。
     そして明治維新。黒船が来訪して開国せねば武力制圧も辞さず、という置き言葉を残し、そして専制君主制の江戸幕府はあろう事か、全藩主にこれに対する対応をアンケートで決定するというお粗末な対応ぶり。一年後にはペリーが再びやってくるというのに大名旗本平民殆どが日和見の白痴的日和見に陥る中、徳川に散々いびられてきた薩摩島津と土佐毛利が反旗を翻しました。中心人物となったのは吉田松陰が教鞭を執った松下村塾の門下生、そして薩長土肥の藩士達。雪崩打つように突如として開国派か幕府派かの決断を各藩は迫られ、結果として倒幕。明治政府設立。そして改めて周囲を見渡してみると、眠れる虎であったはずの清国がアヘン戦争でイギリスに大敗。清の国体は事実上、既に無く、内情はロシアとイギリス、アメリカが傀儡政権を打ちたてんと虫食い状態。目下、まずの脅威はロシアの南下政策。上海租界などで奴隷身分にまで身を窶したかのような清国国民の惨状を目にしていた明治政府高官は富国強兵の元、植民地化の危機を訴え挙党一致体制を築き、国家意思の統一に成功。ここでも平民にとって「生きる」ことは苦痛を強いられる事でした。そして戦い続けて義和団事件、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦に大量の出血を強いられながらも戦勝。この時点で日本は世界でも有数の版図を誇る大国になるものの、先の日露戦争にておおよそ七年分の国庫歳出を債権として捌きながら、ロシアからは賠償金を一文も取れず、財政は火の車。そして折悪しく世界恐慌。その諸端を発した米国においてはニューディール政策など全く効果が無く、日本にハルノートを突きつけ、それ以前から大陸の関東軍も暴走、盧溝橋事件で日中戦争が勃発。これ幸いと米国は秘密裏に国民党軍に軍資金と兵力を提供。大陸戦線は泥濘化し、かといってハルノートを呑み多大な税金と掛け替えのない帝国軍の膨大な犠牲の上に獲得した領土を無条件に放棄すればそれこそ日本は暴動。かといって正面切って戦争に望んでも勝ち目がないと知悉する開戦消極的政府高官の犬養毅や高橋是清らが陸軍の凶弾に倒れ、遂に1939年12月8日、大東亜開戦。やはり米国とは事を構えるべきではないという論を張りつつも、皮肉にも司令官として指揮を執ることとなった山本五十六の号令の元に戦端は開かれますが、結果として日本は敗戦、全ての権益を失い貧困のどん底に再びたたき落とされ、戦時特需によって一番の利益を享受した米国は名実共に世界の覇者となりました。片や日本人は再び泥水をすすり木の皮を食す奈落の生活に落とされます。が、朝鮮戦争特需から列島改造計画、所得倍増計画、工業立国政策により、僅か30年ばかりで奇跡の復興を果たしました。高度経済成長中の国民は決して高い生活水準を送っていたわけではありません。ですが、明日の食料に困ることはもはや無く、少なくとも生存に脅かされることはなくなりました。そして戦後GHQ教育がもたらした戦前とは真逆の大量消費社会は国民を働かせるに充分な原動力となり、ひたすら物理的満足度を追い求め国民は働きます。そして、気づかずその物欲が満たされ過剰消費の時代に突入、価値観はひたすら消費一辺倒という最中、この溺れるような繁栄が永遠に続くと所得倍増計画を各案した下村治以外、誰もが信じ切った先がバブル崩壊。日経平均株価は3万6千円から一気に一万円割れ、同時に地価が冷え込み無担保で土地を転がしてきた銀行の債権が軒並み焦げ付き、国民は一気に冷や水をかけられ夢から覚めました。ただ、物質的豊かさのみ追い求めてきた国民がいつの間にか物質に満たされてしまったことに気付かされ、底冷えした金というあやふやな相対価値の紙切れをはぎ取ってみれば、裸の王様。しかし、明治維新の時とは異なり国民全員が余すところ無く狂っていたため、新たな価値観を示してくれる賢者はおらず、日本の核を担う少年を教育する教員も物質至上主義から抜け出せぬ始末。そしていつの間にか到来した全教時代で学生全員が大学に通い、人材の差別化が困難に成りつつありました。そして、大学を卒業してみれば就職の口がない。これまで正しいといわれて教わってきた事が一夜にして覆った瞬間です。己に植え付けられた価値観は全否定、しかし代替、新たな指針となる指標は誰も示してくれず、取り敢えず働こうにも口がない。しかし、いつの間にやら50年前までは60年だった日本人の平均余命は80年にまで延びてしまっている。どうにかして大学卒業後の60年を生きていかなければならない。しかし、何を求める? 物は全て満たされている。他に必要な物は何か。取り敢えずは生きていかなければならないが、一生を保証してくれる職の口は既に無い。解雇の影に怯え、蓄えも出来ず、生きる指標も見あたらず、しかし人間は生きることのみに長けてしまって、生きる意義、死に様の幸福を失ってしまった。謂わば、強制的に望まぬ「生」を押しつけられているような時代になってしまったのです。これまではただ、教えられた価値観に従ってただがんばれば良かった。それががんばっても報われない、がんばる意味も分からない、でも生きなければならない。ならば、自分の存在意義とは果たしてなんだ?
     本当に長くなってしまって申し訳ないのですが、つまり、高須竜児という存在そのものがこの世の惑いの結晶のように思えるのです。「産まれなければ良かった! 産まなければ良かった!」その絶叫は竜児に向けられているのか、泰子に向けられているのか、果たして誰に向けられた言葉なのか、とても興味深いところです。この時勢で小説でなければ、そのままバッドエンドでしょう。まるで「終わらない鎮魂歌を歌おう」のように。しかし、竜児自身は大河というちっぽけな暖かみから泰子に捨てられるという現実をいともあっさり踏み台にして、その先を見いだしました。それは決して現代社会モデルに見いだされるべき固定された価値観ではありませんが、現実を受け入れて前を見ると「決めた」、本当の意味でそれを知った竜児は後悔しつつも成長し、きっと歩んでいけることでしょう。その傍らには大河がいて、泰子がいて、掛け替えのない志を共にした友がいて恩師がいて、支えつつ支えられつつ竜児は歩いていけるでしょう。そこに、私はいわれようのない救いを覚えるのです。

     というわけでとらドラ、お見事でした! 大河は本当に竜二の誕生日と同時にお嫁に来るんでしょうかね? 大河って絶対に、白無垢が似合いそうなんですけど……。逆に、あの二人のウェディング・スタイルは全く想像つきません! 大河には白無垢! これ絶対です。

    コメント by Mya — 2009/3/12 木曜日 @ 6:59:15

  2. なげーw

    コメント by フラン — 2009/4/21 火曜日 @ 7:57:39

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